国民的人気キャラクター、アンパンマンの生みの親の評伝『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文春文庫)が2025年3月に刊行されました。著者は、熊本県出身のノンフィクション作家・梯久美子さん。やなせたかしが編集長を務めた雑誌「詩とメルヘン」の編集部員となって以来、その人柄や創作に接してきたひとです。
緑したたる、25年7月上旬。「先生は私にとってただ一人の師」と語る梯さんをたずね、師に学んだことを聞きました。
やなせ編集長の
「詩とメルヘン」へ。
やなせたかし先生が亡くなり、もう12年がたちます。20代前半で出会って以来、師と仰ぎ、お仕事をご一緒させていただいた身として、昭和という時代をまるごと生き抜いた先生の生涯と哲学をお伝えできればと思い、この春、評伝を刊行しました。そんな先生から私が学んだことについてお話できればと思います。
私は学生のころ、先生が編集長をされていた雑誌「詩とメルヘン」を愛読し、詩の投稿もしていました。この雑誌が創刊された1970年代は、いわゆるサブカルチャー全盛の頃。派手な色遣いやけばけばしい描写が主流のなかで、書店の雑誌コーナーで見つけた「詩とメルヘン」はその素朴さと抒情性でかえって目を引きました。「編集前記」が巻頭にあり、いわゆる“中のひと”であるやなせ編集長が自分の言葉で読者に語りかけることも新鮮でした。
いつしか、こういう世界に身を置いて仕事ができたらと思うようになり、大学卒業後、出版元のサンリオに就職しました。これをきっかけに私は出版の世界に足を踏み入れることになりました。そこで出会った最初の出版人が、すぐれた編集者であり唯一無二の表現者であったやなせ先生だったことはほんとうに幸運でした。

ノンフィクション作家
梯 久美子さん
1961年、熊本市生まれ。北海道大学文学部卒業後、やなせたかしが編集長を務める「詩とメルヘン」の編集者を経て文筆業に。2005年、デビュー作『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。同書は世界8か国で翻訳出版されている。著書に『原民喜 死と愛と孤独の肖像』(岩波新書)『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋刊)など。『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮文庫)で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、講談社ノンフィクション賞受賞。
先生から学んだいちばんのことは、その生きる姿勢だったと思います。どんな相手でも、困っていれば手を差し伸べる。仕事関係の相手とはふだんは距離感をもって接し、淡々としているけれども、誰かがピンチにおちいると、必ず助けてくださるのです。
先生のことを改めて取材する前は、人間にできる最良のことは「親切」だと私は思っていました。もう二度と会わないかもしれない赤の他人にも最大限のやさしさで接することです。けれども、先生はそれを超える、愛することをし続けた方だったのではと、いまは思います。親切と愛とを分けるものは、自己犠牲という勇気を伴うかどうかにある。そんなことを先生から学んだ気がします。先生は、どんなときもそんな勇気を持っていたからこそ、困っている人を見たら、自分の時間や心を差し出し、分け与えることができた。言い換えれば、愛することができた。絵本に描かれたアンパンマンには、ご自身の哲学がこめられていると感じます。
私自身、フリーランスの編集者だった20代後半に、先生に絵本制作をお願いしたことがあります。先生は快諾し、翌年には続編も手がけてくださっています。けれども、評伝の取材をしてわかったのは、その当時は奥様の暢(のぶ)さんが大病を患っていた時期であり、アンパンマンのテレビアニメ化がはじまり多忙なころだったことです。そんな大変な時期であることはおくびにも出さず、ふだんどおりの態度で、注文に応じてくれました。改めて感謝の気持ちでいっぱいです。

やなせたかし
1919年、高知県出身。本名は柳瀬嵩。東京高等工芸学校工芸図案科(現千葉大学)卒業後、東京田辺製薬宣伝部に入社。徴兵され、復員後は高知新聞社で雑誌編集を担当。1947年、上京。三越百貨店宣伝部を経て53年に漫画家として独立。舞台美術、作詞、ラジオ・テレビの構成も手がける。67年、「ボオ氏」で週刊朝日マンガ賞受賞。73年、雑誌「詩とメルヘン」(サンリオ)を創刊、編集長を務めた。同年、『あんぱんまん』(フレーベル館 月刊絵本「キンダーおはなしえほん」)発表。88年、テレビアニメ「それいけ!アンパンマン」放送開始。2013年、94歳で永眠。
(写真提供:やなせスタジオ)
“漫画家”を
肩書きとした理由。
絵本作家、詩人、デザイナー、舞台美術家、演出家。さらには、童謡「てのひらを太陽に」などの作詞家でもあった先生は、いわゆるマルチクリエイターのさきがけでした。そんな先生が肩書きにしていたのは、亡くなるまでずっと「漫画家」でした。
なぜなのだろうと思っていましたが、評伝の取材を重ねるなかで気付いたことがあります。それは、先生にとってかけがえのない存在だった、弟の千尋さんの思いです。先生は中学3年生のとき、新聞の漫画コンクールに応募して一等に選ばれました。その賞金のなかから千尋さんに小遣いをあげたとき、うれしそうに、「すまんな兄貴、また頼むよ」と言われたそうです。そのことを先生は生涯忘れませんでした。
やがて千尋さんは海軍士官として戦死します。「兄さんはきっと偉くなる」「兄貴は生きて絵を描いてくれ」。兄の才能を信じて疑わなかった弟に、自分が絵でかせいだお金を渡せたのは、漫画コンクールのときだけだった。もっとあげたかった。そんな気持ちが先生のなかにはずっとあったのです。
先生には、家族はもちろん、従軍した時期の戦友や、学生時代の仲間に対してもそうでしたが、亡くなった人の思いを引き受けて生きていこうとするところがありました。それもまた、先生の愛だったと思います。
生涯、漫画家を肩書きとしたことには、千尋さんにとって自分は漫画家であったこと、その自分を後押ししてくれた弟の思いを継いで生きていこうとする決意があったのではないかと、思います。

サンリオを退社し、フリーランスの編集者となった梯さんの依頼を受け、1989年、やなせたかしが手がけた絵本『いねむりおじさんとボクくん アップクプ島のぼうけん』(右)。翌年、その続編『とぶえほん』も刊行(左)。キャラクター造形、豊かな色彩、漫画風のコマ割りが印象的。現在は絶版。

やなせたかし編集長のもと、梯さんが編集を学んだ雑誌「詩とメルヘン」。


