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足さない、引かない、されど、美味い。料理人 菱江隆の世界(前編)

2026/02/17

足さない、引かない、されど、美味い。料理人 菱江隆の世界(前編)

Photo/
Nakanishi Hirohito, Laurent Mana, Mori Kenichi
Text/
Yoshimatsu Teruaki, Sakai Yuji

料理人 菱江隆の世界

熊本・南小国に居を構える
一人の料理人がいます。
その料理人の名は、菱江隆。これまで世界の19か国で活動。
指導者として、新規ホテル開業に伴う
料理人の育成に取り組んできました。
その菱江さんが、日本に戻ってきた理由とは?
その半生と、理念とする「料理は愛情」という言葉に
込められた思いと活動を聞きました。

安全で、安価で、美味しいもの

菱江さんが辿り着いたのは、
安全で、安価で、
美味しいものでした。

稀代の料理人の
ルーツとは

――菱江さんは、「フードマスター」として活躍されていたとお聞きしました。
 はい、米国務省推奨の国際文化交流プログラムが発行していた資格で、3カ国以上の料理に精通していると認められる必要があります。精通している、というのは「プロフェッショナル」という意味なので、ホテルの総料理長以上の知識と力量が求められます。
 資格を得るための審査はフードマスターの資格所有者が4人集まって行われます。一人の「NO」で失格の、厳しいテストです。私は和食、フレンチ、イタリアン、中華の4つのライセンスを持っています。

――菱江さんのルーツは和食なのでしょうか?
 スタートは京料理ですね。神戸で高専に通っていた15才のとき、「まかない二食付き」につられてアルバイトで飛び込んだお店が京料理店でした。その時は知らなかったのですが、京料理では有名な方のお店で。そこで5年間働きました。厳しい世界で、人が新しく入っても厳しさに耐えられず、すぐに辞めてしまう環境。私も最初の2年は店の外で、野菜や食器を洗うことしか許されませんでした。

――そこで菱江さんが辞めなかったのはどうしてなんでしょう?
 単純に「料理」が好きだったからだと思います。考えてみると、母親が料理を作る姿をよく見ている子供でした。興味があったんでしょうね。店主を尊敬していたのもあります。この世で最高の人だと思ってました。実際は直接指導してもらえるわけではなく、兄弟子を通して学びました。入店して2年半が経った頃、ようやく包丁を持って野菜の皮むきをさせてもらえました。3年目で味付け。でも「見て学べ」の世界ですから、全てを教えてくれるわけではないんです。自分の仕事をしながら必死に見て学んでいましたね。

――学校を卒業されて、料理の道を選ばれたのですか?
 工業系の高専でしたから、推薦で神戸製鋼に就職しました。しかし、しっくりこず、働きながら夜、居酒屋でアルバイトをはじめました。経験があったのでどこでも雇ってくれましたね。京料理で5年の経験があると、居酒屋ならすぐに仕切れる状態でした。1年半そんな生活を続けた後、やはり料理の道で生きようと、21歳で会社を辞め、神戸に自分の店を出しました。

――それは和食のお店ですか?
 いえ、今で言うクラブですね。当時はサパークラブと呼んでいました。バンドが入って演奏する深夜営業の店です。食事も出せて、時代のニーズに合っていると考えたんです。その時の自分の実力では、昼や夜の店をやっても他店に負けると思いました。そのため、よその飲食店が終わった深夜の時間帯なら競争相手がいないと考えたんです。目論見はあたり、4年で6店舗まで拡大しました。

この手から人々を魅了する料理の数々が生み出される

この手から人々を魅了する
料理の数々が生み出される。

26才の転機
オーストラリアへ

 この成功が自信となり、昼間でも勝負をかけられないかと思いました。しかし、私のいた関西は料理店のレベルが高く、自分に勝負をかけられる場所ではないとわかっていたので、海外に目を向けました。注目したのはオーストラリア。あの大きな土地で、日本食を出す店はたった6店舗だったんです。勝負するならここだと。英語もしゃべれないまま、まずは現地に飛んで、6店舗を食べてまわりました。そのうち、大都市のシドニーにあり、いちばんおいしいと思った「ふじ」というお店に、雇ってくれないかと申し入れたんです。そこで修行させていただいて、4年半後に独立しました。競合しないようシドニーから遠く離れ、パースというリゾート地で開店しました。

大使館御用達
大使館の料理人に

 修行した「ふじ」は、オーストラリアの日本大使館御用達でした。大使館には職員用の料理をする料理人はいらっしゃるんですが、お客様が来られた時やパーティーに対応する場合は外部の料理人が必要だったため、手伝う機会を私もいただいていました。
 やがて大使が任期を終えてフィリピンに転勤する際、一緒に来てくれないか? と誘われたんです。新天地に興味をひかれた私は、オーストラリアの店は弟子にまかせて、一緒にフィリピンに行くことにしました。そこで大使館の職員の方から、「こういう資格があるが受けてみないか」と薦められたのがフードマスターでした。

――和食以外の料理はいつ学ばれたのですか?
 外国で店をやっていると、現地雇用の料理人がいろいろな料理の専門家なんですね。自分はオーナーですから彼らから学ぶことができました。

ホテルの料理は
「NO」のない世界

――そこからフードマスターとしてのお仕事を始められるのですね。
 はい。スリースター、スリーダイヤモンドなどの一流ホテル開業にあたり、総料理長になる料理人が育つまで指揮をとる仕事です。一か所につき、半年から1年の契約で働きました。現場で一緒に料理をしながら指導し、スタッフを育てます。ホテルの料理はお客様の要望に対して「NO」がない世界ですから、あらゆる知識がないと務まりません。難しかったのは、フードマスターとして外から来て指導に入ると、まず敵と見なされるんです。反発からのスタートですね。しかし私たちの業界は実力が第一ですから、料理をする能力が高ければ従わざるをえないのです。また、スタッフとの距離を縮めるため、ホテルの近くのバーにお金を払い、仕事帰りに誰でも自由に飲んで話せるようにしていました。ホテルの立ち上げが終わる頃には、次の仕事が入っていますので、また次の国に行く。そんな生活でした。

――外国語はどうやって覚えられたのでしょうか?
 これは私だけではありませんが、その言葉しかない環境で過ごせば1か月ほどで耳が慣れてきます。聞き取れるようになったら意味がわかってくる。どこの国に行ってもそれは同じですね。

菱江隆さん

教え子たちからの相談の電話は
今もひっきりなしだという。

日本で目にした
コンビニでの風景

 法事で久しぶりに日本に帰ってきた時、コンビニエンスストアで子供が添加物だらけのから揚げをおいしいと食べているのを見かけました。「そうか、でもお母さんの作ってくれるから揚げの方が美味しいでしょう?」と聞きました。するとその子供は、「一緒」と答えたんです。衝撃を受けました。日本の子供の味覚がおかしくなっているかもしれない、と危機感をおぼえた私は、添加物を使わない料理を普及するために帰ってこないといけない、と思ったんです。それが46歳の時です。海外にいるとジョークとして言われることがあります。「日本人は死んでも腐らない」と。これは日本が保存料などの添加物大国であることを言われているんです。例えばEU諸国ですと、認められている添加物は多い国で20種類。食で有名なフランス、イタリアでは、認められている添加物は保存料としての7種類だけです。味を変える添加物は認められていません。一方、日本は世界で最も多く、1600種類を超えています。

――なぜそれほど多いのでしょうか?
 「簡単に早く」作れるということが一番の理由だと思います。それまで時間をかけて出していたおいしさを、スプーン一杯で出せるようになった。それは売れますよね。高度経済成長期以降、家庭で料理にかけられる時間がなくなっていったことも背景にあると思います。

足さない、引かない、されど、美味い。料理人 菱江隆の世界(後編)

「pomodoro」(ポモドーロ)とは……「pomodoro」(ポモドーロ)とは……

 「熊本がもっとおいしくなる」をコンセプトに、熊本のグルメ情報や文化をお伝えするフリーマガジンです。年3回発行し、熊本市内の交通要所や観光名所等で配布しています。

 pomodoroは、トマトを意味するイタリア語。
 イタリア料理の食材と、熊本で採れる食材は共通点が多いことから名付けました。

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